昭和54年2月23日 月次祭
えー、先日から、えー、えー、櫻井という先生が丁度もう一月になりますか、こちらにご参拝になられました。えー、大きな4階建ての大きなビルを建てられて、2階が教会であり、お広前である。それでまぁいろんな設備がしてある。えー、大きな病院をいくつも経営なさっておられるという、ちょっと変わった教会なんです。
こちらへ、見えられまして、えー色々と、あの、こちらの話を聞かれたり、また聞かせてもらったわけですけれども、先日からあちらの雑誌が月々「やつなみ」という御本が出てます。立派な御本です。それに合楽の事が紹介されております。「神徳三千と輝く」と開口一番に言っておられます。
私は思うんですけれども、こうお互いがもうここにひたっておりますからね、皆さんももう合楽教会のご信者、合楽教会、別にそうなんですけれども、本当に脇から見えたらそういう風に確かに見えるかもしれん。実際私は見えると思いますですね。「神徳三千と輝く」と言うのは、御広前がきれいであるとか立派であると言う事ではない、と思うんです。そこに生き生きとした御神徳の現われが、その御広前いっぱいにみなぎっておる。御信者の一人一人が生き生きとして信心の稽古をなさっておられる。そういうものが、そういう風に、まぁ目に映るのじゃないだろうかと思います。
今日、ただ今お祭りの始まる前に、14、5分間の間ですけれども、お取り次をさせて頂いただけでも・・・。
今日は福岡の「しらみず?」と言う方がお参りしておりますが、この前の月次祭の時に、おじさんに当たられる方が、もういよいよ、お、難しかろう、もう皆難しいと言うし、医者もそう言っておる、けれどもやはり願わずにおれんのがめいごさん。ご自身が大変おかげを受けておられる、そのおかげを、もう最近はもう、その寄ると触ると合楽のご非礼の話をなさるらしい。
その日もやはり、おじいさんの事のお届けをなさっておられましたが、今日もう本当に家ではご仏壇を買って待っておられたと言う( ? )難しか。ご仏壇がなかった家かなんかでしょうね。今日今それを聞かせて頂いたんですけれども。ね、それがね、おっと気が付かれたところが枕もとに、いわゆるご神米が置いてあった。これは何か、と。これはご神米だと言うて、そしたらそれを頂かせてくれ、と言われるから、それを頂かせた。おかげで、えー、18日の月次祭から、ですからね、何日ですか。今日はおかげを頂いて、それ皆にこうバイバイをしながら帰って来られた。もうそれは本当にすさまじいまでの、やはりおかげです。ね。
これもやっぱり、今日参っておられます福岡の田中さんが、お届けお礼を申しておられます。お母さんがもう94、5才位なられましょう、確か。大変お強いお方でしたけれども、おー、倒れなさいました。そこでお届けがあってもう、今度はお歳もお歳だから、とまぁ周囲の方も思うたんじゃないでしょうか。所がお取次ぎを頂いてからだー、と元気になって、今日は元気になったという知らせがあった、と言うお礼のお届けがありました。 これもやっぱり99歳。今日お年よりの話を・・・。ね、「古谷?」さんのお母さんです。ね、十日ばかし前が、丁度その99歳お誕生日でした。そのお礼のお届けがありましたが、翌日から、やっぱりそのどうかこう違われる。ね、言うならまぁぼうけられると言う事。あられの事を言われたり、(くじばしったり?)なさる。そんな方じゃなかったらとてもちゃんとした方だったんですけれども、もう(よる年波?)にはかなわない。それでもやはり、お願いをさせて頂いて、と言うて直ぐお電話を頂きました。したら、もう親先生、もう本当にお取次ぎの有り難さをシミジミ感じましたと言うて、翌日電話がかかって来た。おかげでまた、あの元の元気で、自分でお炊事もなさりゃ、ご飯、ご飯やら自分で炊かれたり、もうそれを楽しゅうなさる。ようなおかげを頂いておる。
これももう84、5歳位なられますでしょうか、今日参って来て。大塚さん達親子が参って来ておられます。最近お参りがないなーと思っておったら、あー、今日は親子でお参りなっておられる。ところが今日、その、おばあさんの(かえるばいのふしまつが?)もうあわやかえすという所であった。それを丁度、子供がそれを見つけて、おかげで大事に痛まずに進んだと言うのです。今日はもう90柄のおばあさんの話ばっかりですけれどもね、いくらも90になっても、99になっても、やはり命は大切。ね、やっぱり最後の最後までお願いしなきゃいけません。
こりゃ先日の話でしたけれども、おー、息子さんが、ある教会に大変熱心におかげを頂いておられる。息子さんがちょっとノイローゼ、えー、のような風でちょっと、おー、まぁおかしいと言うので、えー、お参りになりました。所が、そのご神米を、こう出されますね、そのご信者さん方は。その中に20体くらいご神米が入っておるです。一つのこう、だからもう、生まれるごつなっとる。ご神米入れが。それで私は、それをきれいに取り出させて頂いて。それをきちっと20体を、折りたたんで、それからここの包装紙に包んで、あの渡しました。
○○さん、あのこう言う事がね、すっきりするようになるとね、息子さんの頭もすっきりするようになりますよ、と言うて、私は家のご神米をご神米の中に入れて、そのご神米を一緒に変えさせて頂いた。さぁそこで、本当にすっきりしない、色々な事に気付かれて、おかげを頂いて、昨日、おー、親子でお礼参拝がありました。平常に戻ったと言うて。 今朝から私は御夢を頂いた。日本中の、もう、全県。もうその県代表の方が、合楽にご神縁を頂いて、もうそれこそ凄まじいおかげを、の中に、その体験発表があっておる、と言う御夢であった。もう(宇宙ほしょく?)豊かな、東北の、あったんの人達は、東北の様子をして。ね、沖縄。だからりゅうきゅう風のひ、はりゅうきゅう風の、言うならばこしらえをして、しかも合楽理念の素晴らしい事を完結にお話しながら、こう言うみ教えを頂いて、こんなにも凄まじい働きを受けて、おかげを受けておる、というもう実に簡単な発表でしたけれども、おー、日本中の方達が、その、おー、合楽理念の素晴らしさ、そのおかげの又、凄まじさを、発表しておると言う御夢でした。
今朝から、そ、あー、あの御理解にもその事を話したんですけれども、今日は、まぁ毎日の事ですけれども、今日は10通からのお礼の手紙がまいりました。それこそ日本、あっちこっちからです。ね、その中に、いー、今学院に行っております、梅山君とそれから高松和子さんからの手紙がまいっておりました。二週間の、おー、教会えー、在籍外の教会で修行しておりました。まぁ途中でも何回も手紙が参りましたが、今日の手紙を見せて頂きますと、例えば、あー、高松さんの、おー、この頃目がうすうなりましたから、もう自分で読みません。おー、今日は佐田先生にそれを全部読んでもらった。聞かせて頂きながら本当に感動するようなおかげを受けておると言う事実です。それに和子さんが、どういう事を書いておるかと言うと、とにかく合楽理念の凄まじさというを書いております。あちらへやらせて頂いて、何回も何回もの会合に、話すのは合楽理念である。とくに、土の心を話させて頂いて、もう皆が助かって、あくる日お礼に出てくる。
ね、昨日一昨日でしたかね、かのー、おー、その終って、帰らせて頂く時には総代さん方を初め、教会長先生ご夫妻を初め、もうそれこそ自動車をつられて、えーあの、駅まで見送りがあったと。まるっきり、あの「文治さん?」が出世される時のごとあった、と書いてございます。ただ、修行生が、まだ教師の資格もとっていない・・・。例えば、そこの若先生が、とにかく、あい、その手紙の中に書いてある。合楽という所は大変評判が悪い。それでもあれだけの人が助かっており、あれだけの教師が育っておる。何かがあるに違いないから、修行に行きたい、と思うておる所に合楽の修行生が、この教会に修行に来るということを聞いて、もう、教会あげて大歓迎でした、とこう書いてある。大歓迎を受けておる。ね、そして、その待ち構えてあるのですから、もう、お話、そして、お話をしながら、もう親先生の祈りの中にあるとしか思われない、と言うような、お話が度々出来たとあります。
梅山君のにも同じような事が書いてある。ん、帰る前々日には、総代さんの、お、その、(じかいおうしょうで?)おのみちの、おー、町の見物に、か何とかとう大きな、あ、島にまでこう渡って、その見物を一日させて頂くと言うほどしに、えー、まぁ、こりゃ喜ばれておらなければ、そういう事はしませんよね。ただ修行に行っておるんですから。ね、本部から、本部の学院生が修行行きよるとだから、う、そういう事がだいたいはあの、もう、おー、勿体なさすぎるんですけども、そうでもせずにはおられない、言わばそこには合楽と言うバックがあり、評判は悪かけれども、評判のごとなか、この人ば見りゃ分かる、と言ったようなものがあったんじゃないでしょうか。ね、もうそういう、言うならば合楽理念の凄まじさというような、あー、おかげを皆さんが、頂いておる。
ね、私はご非礼に御神徳三千と輝くと言う事はです、そういう内容があってのお広前であるという事でございます。だから、その、やはりお互い自覚がいるんです。ね。
今日ある方からお届けがございました。もう随分長い信心しておりますけど、たった一人の娘さんが、まぁ言うならば、親の言う事を聞かん。もうてんてんとして、あっちこっちに、えー、その、親の言う事、言わば親の心とは反対の事ばかりをして行く。ね、その方が今日お届けしておられます。夜中にブザーが鳴っておるような気がするつぅ。ね、親不幸な子供が、例えば、何処へいっとるやら分からない、行方不明になっとる、例えばいたしましょうか。それこそ、夜の、おー、風邪の音にも、ね、ひょっとして息子が帰ってきよるのではなかろうか、とやっぱり親は、子供の事を思うたら、(ちじに?)心は砕けるほどしにあるのが親心。ね。そこで私はその方に申しました。ね、信心が分かにゃいけません。それはね、親心が分からにゃいけません。貴方が娘さんを思われる、それこそ毎晩夜中になると、ブザーが鳴るような気がする。ね、ひょっとして、娘が帰って来たっちゃないじゃろうか、とこう思う。ね、それほどしに、寝ても覚めても、子供の事は心から離れられないように、私共がお道の信心をさせて頂くならば、合楽理念の根本は親孝行にある、と言われておる。
ですからね、肉親の親もさることながら、段々信心が進んで行くにしたがって、ね、より大きな親。ね、より大きな親に気付かせて頂いて、その親の思いに沿わせて頂こうと言うが、お道の信心なんだ。ね、言うならば根本理念なんです。ね、親神様の思いが分かりゃ、ね、親神様の思いに沿うた生き方をせずにはおられなくなって来る。親の心が分かればとてもとても親不幸は出来ん。親の心が分からんから親不幸をする。そんなら、貴方自身が、ね、言うならば親神様の思い分かり、いや、おかげを頂くからお参りをしておる。という信心から、信心が分からせて頂く楽しさ。その楽しさが、広がって行く。安心が広がって行く、喜びが広がって行く。ね、もうこれは限りない事ですけれども、安心が広がって行くという、そこにお道の信心をさせて頂く値打ちがある。
今日は、えー、人の難儀を助ける、られる。牛馬が自分の子供が水におぼれておってもそれを助けると言う事は出来ないけれども、人がそれを見ると助けてやる。助けてやれる、助けれれる、という事は有り難い事ではないかと。という、あの御理解に基づいてでしたが、あー、今日「くまがえ」さんがお届けをなさいましたが、事でした。
あちらがお導きに成りました、あ、「かませ」と言う熱心なご婦人があります。ご自身も大変おかげを頂いておる。毎日神様の事を、「くまがえ」さんが御取次ぎを願われる。もう本当にビックリするほどおかげを頂かれる。
先日、あちらの共励会に見えてからでしょう。お話になった。ね、私の周囲に難儀な人がいくらもある。それで、とにかく合楽にお参りなさいやおかげになるよ、と言うならば、もう本当にそれを言い切って、お導きをさせて頂くと、皆がお参るようになる。それが一人一人がおかげを受けて行かれる。もう、これはもう本当にビックリするくらいである。いわいる「かませ」さんの周囲に、いわば近所隣の方達が皆ついて参って来て。その一人一人がおかげを頂く。ね。ね、ところが、ね、人にお話をする時には、もう合楽には参りなさい、絶対おかげ頂くですから、もう間違いなしおかげ頂くですが、と言うけれども、自分自身のことになると、ね、そういう確信が持てない。不安である、心配である。
どういうもんでしょうか、と言うて「くまがえ」さんが話しになったと言う、お届けを今日なさいました。そして「かませ」が気付かせて頂いた事は、はー、「くまがえ」さんが日々私の事を祈っておって下さる。その働きがこう言う働きになってくるのだろう、とこう思うた、と言うのです。
「くまがえ」さんはそれをまた、思われた。もう、好い加減おかげを受けられて、いわば一つの願いの成就した。それで一時「くまがえ」さんがその方のお届けをやめられた。やめられたどころか、今度は又、その「かませ」さんの家に大変難儀な問題が起こった。それを聞かれて、はー、本当にいな、祈りをやめちゃいかん、御取次ぎを頂きようなきゃいかんと思うて、またそれから新たな御取次ぎを頂かれるようになった。
おかげを頂いて、もう助かるまいという者が助かるようなおかげを、さ、頂かれた。そういうおかげを、に、おかげを頂いておりますから、人にはそれを確信を持って、言うならとにかく合楽に参りなさい、おかげ頂くとこう、言えれるけれども、それが次自分自身の事になると、ね、言うならば、あー、不安である、心配である。とこう言うのである。ね、はー、そこで気付かせて頂いたのが、くまがえさんの(いっしんんつ?)の御取次ぎを頂いておるお祈りを、いわゆる(後ろ疑念?)をして頂いておるから、私の周囲にこんなに人が助かるだろう、という事であった。を聞かれたくまがえさんがです、ね、本当に日々親先生の御取次ぎを頂いておる。その御取次ぎを頂いておる、その事がです、ね、言うならば、くまがえさんの周囲に(いちれんたくしょ?)の助かりになって行っておる。 親戚だけではない、自分の周辺だけではない。お導きをしたその周辺までも、確実に助かると言うようなおかげが現れて来た、と言うのです。
今日、研修の時に私は大変おかげを受けた。本当に研修は、本当にかかされんな、と何時も思います。皆もおかげ頂くでしょうが、私自身もやはりおかげを頂く。
今日はある人が、発表しております中に、合楽理念は、ね、簡単で明瞭であると発表しておった。ね、何なにを合楽理念を持ってする他はない、何なには合楽理念を持ってする他はない、ともう合楽理念合楽理念と言うけれども、その合楽理念とは何ぞや、ともし聞かれたなら。とにかく簡単です、ね、とにかく明瞭です。だからおかげが確かです。
私こう言う風に答えたらいいと思うんですよね。合楽理念とは、助かりの理念ですよ、と。と言うだけではなくて、合楽理念はね、簡単なんです。そして、明瞭なんです。ね、だから、おかげが確かなんです。
これだけで皆さん良いでしょう。な、どげなん簡単、そげな簡単なものなら一辺見てみろうか、参って見ろうか、と言う事になるんじゃないでしょうか。宗教と言うものはもう、とにかく極めれば極めるほど分からなくなっていくものだ、と言われております。だからやはり、超哲学とさえ言われる訳なんです。そういう難しい事を言わなければ、りっぱな宗教だといったような観念を空振り捨てて。ね、人間が助かる事のための宗教。人間が幸せになってい事のための宗教。しかもこれは絶対の道であり、絶対のおかげに繋がる手立てが合楽理念である、と分からせてもらい、ね、確信させてもらい。もし、合楽理念とは、と問われたならばです。とにかく簡単です、ね、しかも明瞭です。ここんところですよね、簡単で、簡単明瞭です、ち言うたら、いかにも簡単め、簡単のごたるでしょうが。ところが簡単です。しかも明瞭なんです。この辺のところが素晴らしいところです。
その人の助かる手立てが、明瞭に説き明かされてある。しかも成そうと思えば、子供でも、ね、誰でもそれを行ずる事の出来れるような説き方がしてあるところに、私は合楽理念の得意性があると思うんです。ね、難しい事を言わなければ、覚えなければ良い宗教ではない、という観念をかなぐり捨てて、いや、宗教が、ね、正しく人が助かる事のために、ね、幸せの事のために宗教があるものだとか、仮定して。ね、その幸せになって行く一番み、確かな、しかも、ね、見やすい手立てを合楽理念と言う。
だから確かな助かりが、これに伴うのです。いうなら、和子さんの言葉を借りると、合楽理念の凄まじさという事になって来るのです。今そこで、(じゅうしこんかん?)の間に私が御取次ぎさせて頂いた皆さんのおかげ話と言うの、のでも凄まじいでしょう。
ね、家にはもう、仏壇の用意までされたと言うほどしの病人がおかげを頂いて、手を振りながら孫達に挨拶しながら帰って来た。
先日、鞍手から、今日も沢山参っておられますが、あー、朝電話が掛かって来た。「島田?」さんから。先生今日は、その新しくお参りしたい、という方もあって、とにかく我も我もですから、どうしてもその(使命?)お参りせなきゃなりません。車5人乗りです。だから7人で乗ってきますけん、どうぞよろしゅうお願いします、と言う事であった。だから、はいんなら御取次ぎさせて頂こう、と言うてまぁ無事に、あの、んー、どげな風にして乗って来なさったやら知らんけれども、おー、7人乗って来とんなさる。
そしたら、あー、皆が帰りなさる時に、(したげならん?)トランクを開け、とランクの中に入ってから、まぁ二人か何人か入って来とんなさるげなもん。そりゃあんたもう、その人言いなさるとに、き、こっちさん行きがけには、そのトランクが閉まってしもうたげな。お取次ぎを頂いてね、もう止むに止まれん合楽へ、合楽へ、と言う心がです、ね、やはりそういうおかげにもなってくる。
その中の一人にです、これはもう人間関係の事でございましたけれども、もうとにかくまぁ解決のつきそうな話じゃなかった。もうそりゃもう(ごあさ?)にしたがよかが、ちいうごたる話じゃった。
ね、ですからもうその事でもうずーと朝から晩までご飯が行けん位に夜も眠られんように心配な事ですから、お参りをして、私はお話をしてもなんとこう、(つうとん?)せんごたる感じじゃった。ね、いわいるコンクリーの上に水撒くごたる感じじゃった。もう、そげな事じゃなか、私が苦しかとはそげな事じゃなか、ちいうごたる風な感じなんです 。ね、所がです、ある時のお参りにですね、黙って治めるという事だけが耳に入った。ほー、黙った治めるという事はそういうおかげを頂くなら、これならまぁ、一つそれに取り組もうという事になって、その黙って治めるという事にもう徹しておかげを頂い、もう、しゃ、始めての方が参って来てからあんなにこやかな顔を、を私は見せて頂いた。人間の心が(ほぐれて?)くるとです、どんなに硬い表情の人でも、冷たい表情の人でもです、柔らかに緩い、ゆる、緩んで来る。顔色が。ね、心が豊かになるからです。
もう先生おかげを頂いてこの頃は、もう黙って治めるという事の素晴らしさ、言うならば、凄まじいおかげにもう驚いております、とこう言う。どうにも出来なかった問題が解決してきた。人間関係がぐわい行くようになっただけではない。先日お願いをさせて頂いて、里のお母さんが大変な難儀を、な病気をしておられる。だからその、お母さんの御取次ぎをさせて頂いて、母親にもその事は言うておいないのに、先日からその母親がやって参りまして、もう私はこの頃こん痛かつが、もう忘れるごと良うなっとるがの、と言うお話であった。
それこそ願い以上の願いと言うものが、もうお里の上にまで、現れておるという喜びのお届けがございました。ね、だからね、やはりその、おー、黙って治めるという事でも、これが抜けなければ、徹しらなければいけない、と言うことが分かります。
ね、昨日中村徹美先生が、その事を発表しておりましたが、ね、黙って治めるという事は、心を神様に向ける事だからおかげになる、と言うております。私はこれを聞いてからね、もう、他ん、今日の発表はもう、これにせろ、と言うて、おそらくとうばん昨日まで、昨日の(もんでさ?)
ね、黙って治めると言う事が、もうはがいかばってん、堪えとるちゅうとじゃなかもんね、合楽で黙って治めると言うのは。そうでしょうが。治めると言う字はさんずいへんに無口と書いてある。言うならば、自然に起きてくる事を無口で受けて行こう、黙って受けて行こう、もう、出来るならば、合掌して受けられるおかげが頂きたい。けれどもこれだけは言わずには、これだけはせずにはおられない、と言うようなことであっても、生神金光大神様を一心に唱えての黙って治めるである。これが、一心だという事を昨日頂いたんです。
ははー、神に一心とは、とはそういう事なんです。ね、黙って、言わば合楽理念の中の一つをなら取り上げてもです、黙って治めると言う事はそのように素晴らしい事だという事でございます。
ね、けれどもそれに徹底していかなければいけない、と言うことであります。ね、なるほど、ね、どうかここに一口言わにゃおれない。生神金光大神様黙って治めさせて下さい。と言うて願う。これが一心なんです。ね、だから神様へ通じるんです。天地との言うならば、る、おかげのルートが開けてくるのです。と言う発表を中村先生がしております。もう正しくそうなんです。
だからね、え、もう黙って治めとけと、これだけは言うとかにゃ、と言ったようなことは、ね、はっ、もうつまらんって言う事。それでもう、ちゃんとそこから、空気が抜けるように抜けてしまう。徹しなければダメだ。しかもね、その黙って治めると言うのが、金光様ー、といわんでも、治められるようになったら、もう黙って治めさせて頂くお徳が身に付いたと言う事になるのです。
素晴らしいでしょう。お徳を受けるということはそういう事なんです。ね、例えば去年まではもう腹が立って答えなかった、それを辛抱するのに骨がおれよったけれども、今年はおかげでむしろそれがあり難うなった、と言う所へこれが至ってまいりますとです。ね、もうそれは、黙って治める徳になって行くのです。ね、そこから凄まじいおかげの展開と、なるわけであります。どうぞ。